読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ファイヤードブログ

ディジタル・パブリッシングという観点から、Webサイト制作、電子書籍制作などを。※ブログリニューアル中

Instagramの残酷さについての覚書

ネット時評
  • 誰かのブログに行ったとして、プロフィールにはたいがいSNSアイコンの一覧が載っている。主に、TwitterFacebookYouTubeTumblrInstagram、などがそれだ。
  • この中でも、Instagramというのは特異なSNSだ。なぜか。
  • 言うまでもないけれど、Instagramに投稿するためには、写真を撮らなくてはいけない。一方、他のSNSに限っては、リンクをシェアするだけの投稿というものが成り立つ。あるいは、言葉だけでも投稿としての要件を満たす。
  • しかし、Instagramは、まず写真ありきで言葉を残すにしても写真をまず撮らなければいけない。さらに、Instagramにおける写真投稿は基本的に自分で撮ったものであることが(TumblrやPinterestにおいてはそうではないのだが、なぜかInstagramに限っては)暗に要請されている。
  • Instagramが残酷だという1つ目の理由は、それが人々に絶えずセンスを問うているということだ。何故それを撮るのか、対象をどう撮るのかということを、カメラマンでもない一般人が考えなくてはいけない。
  • とはいえ、インスタグラムも画像にフィルターをかけられるようにしてあるので、ある程度ユーザーの技術的な負担を軽減しようとはしているということを指摘しておく。
  • 考えてみれば、ユーザー投稿型ウェブサービスというのは、多かれ少なかれ人々にセンスを問うている、という側面はある。Twitterは、人々を140字で納めるのが得意なコピーライターにすることにいくらか成功したし、SNSではないかもしれないけれど、boketeは万人に開かれた大喜利ともいえる。
  • だが、写真はそれらとは決定的に異なるところがある。それが2点目の残酷さとして挙げる理由になる。それを以下に述べる。
  • 写真を撮るということは、写真を撮るに値する場所に行った、と言い換えられる。日常的に写真をアップすることを要請されるということは、
  • 写真を撮るということをもっと広く考えるならば、写真に撮るに値する何かを得た、ということでもある。それは訪れた場所での機会としてだったり、あるいは具体的な物だったりするかもしれない。
  • 具体的な例で述べてみよう。これを書いているのは土曜日だが、私がしたことは朝早くミスター・ドーナツに行き、Kindleで本を読み、図書館が開いたら図書館に行って適当に本を借りて、オリジン弁当でのり弁を買って、家に帰って作業して、、、と、まぁ、だいたいこんなだったが、何も撮るに値しない。これが日常だ。一方、ディズニーランドや上野でやってるウフィツィ美術館展にでも行ったとしたら。
  • ここで、こういうツッコミがあるかもしれない。「いやいや、何もないとおっしゃいますが、何もない日常にこそ驚きを見出すのが大切なことです。ほら、いつもは見なかった黒猫が今日は道を歩いていたでしょう。そういうのをレンズを向けるのです」

 しかし、これこそ先に話題にしたセンスの問題なのだ。

  • どうしてタイトルに「残酷さ」とつけたかというと、「持てる者」と「持てない者」の間に格差的な状況が生じるからだ。「持てる者」はその持っているものをただ撮るだけでよく、「持てない者」は持っていないために「センス」を駆使して日常の読み替えに勤しむしかない。どちらも、Instagramというプラットフォームに対するコンテンツ提供者という面では同じなのだが、後者の方が悲惨な状況にある。以上。

 こういうことをネットで書いても誰も読まないよなあ、と無力感に苛まれながら「公開する」ボタンをいまから押します。