読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ファイヤードブログ

ディジタル・パブリッシングという観点から、Webサイト制作、電子書籍制作などを。※ブログリニューアル中

「嫌なら見なければいい」について

ネット時評

 新年初違和感ということで、記念して書きたい。平日16時台にラジオをつけるとしたら、荒川強啓デイキャッチなのだけれど、そこで休日をまたいで2日連続して出会った言葉が、タイトルにあった言葉だった。バリエーションとしては、「見たくないなら見なければいい」などがある。読者の方も聞き覚えがあるのではないか。私には、この言葉の何かが気持ち悪かった。そのことについて述べたい。
 まず、この言葉が出た文脈について触れる必要がある。一回目は、元フィギュアスケーターの安藤さんの画像に関するネットのバッシングを扱った時で、二回目は、きょう、芸能界復帰を発表した山本さんについてニュースになった時だった。
 安藤さんのときは、記憶があやふやだったのでいま調べ直したところ、安藤さん本人の発言だったようだ。山本さんの方は、復帰について文句を言う人々に対して苦言を呈するリスナーから発せられた言葉だった。
 話を進める前に、この2つを分ける必要があるはずだ。安藤さんの方は、文句を言われた当事者が、いわば文句に対する反論として語ったのに対し、もう片方は、文句を言う人々を想定した第三者がその想定した対象について文句を言っている(ちなみに、敵を勝手に想定して文句を言うというのは、SNS上の発言の大部分を占めていると思う)。
 これで話の土台は整ったとして、じゃあ何に対して私は違和感を覚えたのだろうか。現段階では、大きく2つあると考えている。
 まず、当事者として「見なければいい」というのは無理がある。言ってみれば、これは今回のケースでは安藤さんが「見なければいい」というのは、少し変じゃないのか、ということだ。別に安藤さんに限らず、売れているミュージシャンがそのアンチに対して、「聞かなければいい」と非難するのも同様のことだ。
 これは、マスメディアと大きく関わっている。彼ら(というか、マスメディアに触れるものは皆)は、見たり聞いた入りするものを完全にコントロールできない*1。マスメディアに触れる機会がある限り、多かれ少なかれ遭遇する可能性にいるのであるから、「見るな・聞くな」という反論は通じない。彼らからしてみれば、バッシングしようとしてネタを探していたわけではなく、単に不意を打ち食らった感覚に近い(もちろん、それに反応して実際の攻撃に及ぶというのは別の新たな問題)。
 また、「見なければいい・聞かなければいい」ということを反論として言える立場の人間は、自分が「見なければいい・聞かなければいい」という発話が、広い対象に、見られ聞かれうるからこそ、そういうことを言っている。だから、これと同じレベルで、写真や音楽や声や姿だって、見られ、聞かれうるということを認めなければならないのではないか。見ないでくれという言葉が広まるほどには見られることは不可避なのではないか。これが一点。
 もう一点は、あらゆる「嫌なら見なければいい」という類の言葉を想定としている(ひとつめが長くなったので短くまとめる)。先に、マスメディアなのだから避けられないといったようなことを言った。では、インターネットってマスメディアなのか、という問題が出てくる。新聞やテレビとは違って、ネットでは「自分が見たいものしか見ない」ということが、やろうと思えばできるレベルにまで来ている。
 Googleはどんどん自分に都合のいい結果を出してくれるようになるし、自分向けにカスタマイズされた記事を配信するアプリも盛んになっている。あるいは、技術以前の話として、隣国のことが嫌いな人は、隣国についてのネガティブな情報しか目に入らないだろうし、科学に一切興味のない人は科学の話題について何もキャッチアップしていないだろう。
 人々が本当に自分の見たいものしか見ないようになったら、それは怖い社会だろう。そして、「見なければいい・聞かなければいい」というような発言は、人々が見たいものしか見なくていい世の中を前提としている、あるいは、そうなることを望んでいるように思える。
 
 なんだかんだ言っても、いずれにしろ思うのは、愛せなければ通り過ぎればいいのに、ということです。(1829字)

*1:例えば、私は妖怪ウォッチについて何も思うところはないが、じばニャンを1日数回目にするし、それによって妖怪ウォッチのことを思う。いや、思わされている。