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ファイヤードブログ

ディジタル・パブリッシングという観点から、Webサイト制作、電子書籍制作などを。※ブログリニューアル中

『嫌われる勇気』で気になったことのメモ。批判と注釈

livre

 いまさら読んでしまいました。そのことについては、別記事でほぼ書き終えていますので、近いうちに公開します。本書はAmazonでの評価がべらぼうに高いのもあって、ここではちょっと冷静になって気になったことを書いてみます。

トラウマの否定について

 アドラーがトラウマを否定していること、そこが新鮮さを持って受け入れられる要因になった。

 フロイト的なトラウマの議論は、興味深いものでしょう。心に負った傷(トラウマ)が、現在の不幸を引き起こしていると考える。人生を大きな「物語」としてとらえたとき、その因果律のわかりやすさ、ドラマチックな展開には心をとらえて離さない魅力があります。(p29)

 ここでトラウマは、物語として組み込める認識対象としてあるが、本当のトラウマというのは、言語化できないものであると思う(確か河合隼雄氏かラカンでこういう議論があったような気がしていますが失念してしまっています)。自分のトラウマを認識して言語化できる人は、少なくともトラウマの最悪な状況は脱しているはず*1。本書ではこういう言語化なされない段階のトラウマには一切触れていない。

「いまのライフスタイルをやめる」という決心をしろとは言うが……

あなたがいま、いちばん最初にやるべきことはなにか。それは「いまのライフスタイルをやめる」という決心です 。(p55)

 これを読んだ時にすぐに思い浮かんだのは次の言葉だった。


 上の「決心」する、というのは、大前研一氏のいう「決意を新たにする」ということだろう。

フロイトの扱いがちょっとかわいそう

 フロイトは本書ではしばしばアドラーの対比として引き合いにだされるのだが、アドラーの教えを有効に見せるために(仕方ないにしても)、フロイトがちょっとかわいそう。ほとんど本を読まないような人も読むような本だから、これだけ読んだ人がフロイトに変な評価をしてしまいそう、という気がする。
 自分は読書体験が未熟な時期に、内田樹氏の『寝ながら学べる構造主義』を読んで、その後サルトルが単にダメな思想家だという思い込みを持ってしまっていたことがある。『寝ながら学べる-』のサルトルのポジションを、『嫌われる勇気』ではフロイトが担っている。導入の手段として、対立させるとわかりやすくはなるけれど、その役目を担わされたフロイトがちょっとかわいそうだ。

ほめることに関して

 これは批判というか、注釈になるのだけれど、アドラーの教えではほめること/ほめられることを否定的に捉えている(読んだ人は、これが縦の関係・横の関係の文脈で出てきたことを思い出してください)。
 ここで注意するべきなのは、アドラーの言う縦の関係から生じる「ほめ」なのか、横の関係から生じる感謝や尊敬の念なのかは、言葉だけでは区別がつきにくい、ということだろう。例えば、「えらいね」は明らかに「ほめ」である。では、「いいね」、「すごいですね」あるいは「やったね」はどうだろうか。これは相手の文脈を読まないといけない。『嫌われる勇気』の中でほめることが例示されるときは、197頁にあるように、子供と夫への接し方の違いとしてわかりやすく語られる。だが、現実はもっと複雑だ。言葉だけでは区別がつかないケースが往々にしてある。
 これについてはどう考えたらいいだろうか。アドラーに影響を受けたと語る宮台真司氏の発言がヒントになるだろう。


 たしか、宮台氏は上のツイートで引用された本で「変わりやすいテクストよりも変わらないコンテクストに目を向けよ」という趣旨の発言もしていたと記憶している。

*1:なので、「僕(私)にはね……っていうトラウマがあるの」と深刻そうに言われると私はゾッとしてしまいます。