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ファイヤードブログ

ディジタル・パブリッシングという観点から、Webサイト制作、電子書籍制作などを。※ブログリニューアル中

可能性の留保の魅惑について

livre

 2013年暮れに発売され、2014年に大ベストセラーになった、『嫌われる勇気』という本を、2015年の2月に読んだ。ここ最近自分で考えていたことがいくらか整理されたように思う。あまりにも有名なこの本についての感想や紹介は今更不要なので、その中から1点だけ書いてみたい。
 それは、「できないでいること」もっと言えば、「したいのだけれど、しないことを選択すること」が人間にとって実に魅力的だということ。これをかっこつけて「可能性の留保の魅惑」と呼ぶことにした。
 この本のなかに紹介されている作家志望の人の例を出そう。この作家志望の人は、作家を夢見ていながら、作品をひとつでも完成させないし、そのために賞の応募へもいたらないままでいる。なぜやらないかというと、「仕事が忙しいから」といって、よくある言い訳をする。こうした人に対して、本書の導き手である「哲人」はこう言っている(55頁)。

 実際のところは、応募しないことによって、「やればできる」という可能性を残しておきたいのです。人の評価にさらされたくないし、ましてや駄作を書き上げて落選する、という現実に直面したくない。時間さえあればできる、環境さえ整えば書ける、自分にはその才能があるのだ、という可能性のなかに生きていたいのです。おそらく彼は、あと5年10年もすれば、「もう若くないから」とか「家庭もできたから」と別の言い訳を使い始めるでしょう。

 しないでいることによって、できるかもしれない、うまくいくかもしれない自分をとっておくことができる。実際にしてしまえば、現実にはできないということがわかてしまう、そうして輝いて見えた可能性を失ってしまうかもしれない。

漫画家になりたいけど、漫画を描いたことのない人って、何考えてるんだろうなぁ…?
なれる訳ないじゃん

から始まる、佐藤秀峰氏の一連のツイート(cf. 佐藤秀峰先生の「今まで見てきた漫画家になれない人たちの言い訳」 - Togetterまとめ )も、この例に当てはまる。ここに出てくる「漫画家になりたいけれど漫画家になれない人」たちは、「漫画を描いたこと」がない。しないでいることによって、漫画家になるという可能性を留保させている。空想としては楽しいだろうが、このままでは漫画家にはなれない。「夢を叶えるためには、まず夢から覚めなければならない」といったようなことをヴァレリーが言ったか言わなかったかは不確かだが、この後半の「夢」は今まで述べてきた可能性を留保した状態と言い換えられるだろう。
 また、アドラーについてしばしば指摘されるように、ニーチェとも通じるところがある。可能性の留保のままに生きることはルサンチマンであることに通底する。ドゥルーズから引用する。

怨恨(ルサンチマン)の誤謬推理は次のことに、つまり自分の為しうることから分離された力の虚構に立脚している。反動的諸力が勝利するのはこの虚構のおかげである。反動的諸力にとっては、実際に能動性を免れるだけでは十分ではない。さらに、反動的諸力が諸力の関係を転倒し、能動的諸力に反対して、自らを優越するものとして表象することが必要である。怨恨(ルサンチマン)における糾弾の過程はこの責務を遂行する。反動的諸力は、力の抽象的で中立化された一つの像(イマージュ)を「投影する」。自分の諸結果から分離されたそのような力は、活動するならば罪になるし、反対に活動しないならば賞賛に値するだろう。(『ニーチェと哲学』、G・ドゥルーズ江川隆男訳、pp.244-245、太字強調部は書籍の上では点)

 クウソウイケナイ…でも、ゲンジツコワイ。読者としてはどうすればいいのだろうか。「夢」から離れれば人は現実に直面することになる。橋本治氏は、例えば、この現実のことを「その中で生きようとするものを傷つけようとする力のこと」と定義している。これは面白い定義だ。この「傷つく」ということは『嫌われる勇気』でも大きく話題でもある。
 アドラー的な解決としては、「共同体感覚(social interest)」ということになるんだろうが、これを個人的には「歴史感覚」と「誤読」した。続けて書けなくもないけれど、今までと同じくらいの文章量が続きそうなのと、考えが熟していないこともあるので今回は一旦ここで終える。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え